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【Masa’s VOICE】真なるものへ① 神宮寺報山河より

FOS  戸高雅史がこれまでに紙面、雑誌等で伝えてきた言葉をご紹介していきます。

今回は、臨済宗妙心寺派神宮寺の寺報に掲載された想いをご紹介します。

真なるものへ①        戸高雅史

初めまして。戸高雅史と申します。神宮寺ご住職の谷川さんとのご縁から、この度、臨済宗妙心寺派神宮寺の寺報に関わらせていただけることを大変光栄に感じております。
私は現在、「登山家」として活動させていただくとともに、子どもたちやファミリー、一般の方々を対象とした野外学校Feel Our Soulを主宰し、自然のなかでの様々な体験の機会を提供させていただいております。

臨済宗や神宮寺につながるみなさまには、それぞれに日常やお寺で、そして様々な形で、精神と肉体の探究の旅をされておられることと推察致します。私は特定の宗教や宗派には属しておりませんが、自分なりに真なるものを求め、山や自然にふれ、そして他者とのかかわりのなかで生きてまいりました。この原稿におきましては、その私なりの人生の旅と、そこでみ、感じてきたことをお伝えできればと願っています。

プロローグ

1961年、大分の山間の小さな町、宇目町で私は生まれました。日本百名山のひとつ、祖母山から南へ、傾山、大崩山と連なる宮崎との県境一帯は、貴重な自然と、自然を敬い、祈り、その自然と共に生きる暮らしと文化が評価され、昨年、ユネスコエコパークに登録されました。豊かな自然と素朴な地域。時代もそうであったかもしれません。
その地で育まれた小さな頃。なかでも思い出すのは、夕暮れ、家の前の橋の上から西方に聳える山を眺めていたことです。おおらかな山容の桑原山。別名、八本の木の山とも呼ばれる山に向き合い、子ども心にも何か感じるものがあったのでしょう。登山と出会うのはまだ先のことですが、山とお話しするような感覚だったのかもしれません。大人になって初めて訪れた八本の木の山は、素晴らしいバイブレイションに満ちていました。ふもとには上人の岩屋と呼ばれる洞窟があり、幾多の行者さんが古来から修行をしていた場所でもありました。

中学までは宇目で育ち、高校では30kmほど離れた佐伯市の高校へと進み親元を離れて下宿生活。高校時代はもうひとつ自分をつかみきれませんでしたが、幕末を舞台にした小説を読み、未来のためにいのちをかけるような熱い生き方をしたいとの思いを抱きました。
まだ、明確な目標ではありませんでしたが高校の教師を目指して福岡の教育大学へ進学。
ここから大きく私の人生は動き出しました。
アパートの隣人が探検部の4年生という偶然の、今思えばご縁といえる出会いで探検部に入部しました。部の理念は「未知なるものへ」。ただ、地方の一大学で世界的な探検を目指すことは簡単ではありません。「未知なるものへ」の前に「自分にとって」を付け加えることで、自由でワクワクする世界が生まれてくるのです。行動、体験を何よりも大切にするスタンスにもすっかり魅了されました。自分が興味を感じた事を直接体験を通して確かめてゆく。その大枠の中では、何をしても良いのです。先輩のなかには、ひとがひとりになったとき、どんな風に感じるかを確かめたくて、大学の近くの池でドラム缶筏で夏休みの二か月間を過ごそうとした方もおられました。
私は様々な活動のなかでも特にケイビング(洞穴探検)を中心に活動。カルスト地形(石灰岩地形)には水によって穿かれた竪や横の鍾乳洞が大小無数にあり、そこへ匍匐前進も交え、泥だらけ、水まみれになって入ってゆきます。それはもう、子どもの遊びといってよいものかもしれません。福岡には平尾台、隣県の山口には秋吉台という素晴らしいフィールドがありました。
一年も終わりを迎える頃、学生課に行き、成績表を手にしました。クラブの活動に夢中になるあまり、単位はあまり取れていませんでした。
でも、自分のことを振り返ったとき、妙に生き生きしていることに気づきました。
いま、自分がこの大学にいることも含めて、これからどこに向かって生きてゆこうか?
芯からワクワクしている自分がいたのです。中学、高校と成長してゆくに連れ、いつの間にか、自分の意識のなかに枠を作っていたのかもしれません。その枠が、自然のなかで三歳や四歳の子どものように、感じるまま、こころのままに遊ぶ体験を通して消えてしまったようでした。
「なんでもできる!」
「自分の好きなことをやっていいんだ!」(ひとに迷惑をかけなければですが)
内から溢れる情熱と共に、「どこへ向かおう。」との問いが生まれていました。

真なるものへ

しばらく、図書館の書庫に籠ってヒント探しの日々。
哲学書から宗教書、偉人伝などピンと来たものを読み続けました。読めばそれなりに影響を受けるのですが、「ここだ!」というものに出会えないままひと月が過ぎようとしていました。
自分みたいなタイプは動いて、感じて、見つけるしかないのかなと思いかけていました。

入部以来、いつも明るくにこやかだった私が考え悩んでいる姿が気になっていたのでしょう。隣の部屋の先輩(山で怪我され入院したこともあり、卒業延期となっていました。)が、「戸高、お前、この本読んでみたら。」と一冊の本を差しだしてくれました。

「孤高の人」

昭和の初期に日本アルプスの山々で活躍した実在の単独行の登山家、加藤文太郎氏について書かれた新田次郎さんの著作でした。
(著作: 孤高の人(上)孤高の人(下)

読み進むにつれて、主人公の文太郎に感情移入してゆきました。
不器用乍ら一途に歩む文太郎の姿。なかでも惹きこまれたのが、厳冬のアルプスの山中で文太郎が生命力に溢れたダケカンバの木のもとに穴を掘り、木と自分をロープで結びあい、一夜を生き抜こうとする場面。ダケカンバの生命力と少しでも一体化したかったのかもしれません。
このシーンにふれた瞬間、

「ここにゆきたい!この世界にゆけば、なにかがみえるかもしれない!」
と、こころが震えるようでした。

「どこに向かうおう。」から始まった問い。
真なるものを求める熱と共に、山への扉が開こうとしていました。

大いなる山河       神宮寺副住職 谷川光昭氏

可笑寒山道      笑う可(べ)し寒山の道
而無車馬蹤      而も車馬の蹤(あと)無し
聯谿難記曲      聯豁(れんけい) 曲れるほどを記(しる)し難(がた)く
畳嶂不知重      畳嶂(じょうじょう) 重なるほどを知らず
泣露千般草      露に泣く千般(せんぱん)の草
吟風一様松      風に吟ず一様の松
此時迷徑處      此の時 径(みち)に迷う処(ところ)
形問影何従      形は影に問うに 何(いず)こ従(よ)りすと

寒山の道はおもしろや。道はあるのに馬車のわだちの跡は無いとは。
連なる谷々を道はいく曲りしていることやらいちいちおぼえておれず、たたなわる峰々はどれほど重なっているのか、見当もつかぬ。露に泣きぬれた千々の草々、風にうそぶく一様に生え広がった松。
この時、旅人はこの所で道に迷い、肉体が影法師にたずねている、「おれはどの道を取ったものだろうか」と。
(『寒山詩禅の語録13』入谷仙介松村昴/筑摩書房/1970)

これは寒山詩のうちの詩の一編です。寒山の道とは仏法を追い求める道のことをいいます。ちょうどわたしが神宮寺で生きていくと決めた、その道に通じます。わたしはこの詩を勝手にこう解釈します。寒山への道のりは長く困難。険しい渓谷は行く手を遮るが、道端の草木は青々と輝き、わたしの心の在りかを教えてくれる。もし、道に迷ったらわたしは行き先を自分の影に聞いたらいいのだ。

わたしには行き先を尋ねられる影がたくさんいます。お寺の檀信徒の方々、神宮寺の歴代の住職、多くの和尚様たちがいつも支えてくれ、迷ったときは道を示してくれます。わたしは僧侶として神宮寺で生きていくことを決めました。多くの方々に出会い自分の生き方に自信を持つことができました。そして、たくさんの人との出会いが糧となって自分の中で生きています。

仏教の教えやこの世の真理のことを「法」といいます。ここ信州の地に暮らす人々は自然の中に生き、自然と一緒に暮らす術を知っています。北アルプスを有するこの松本平では常に四季の移り変わりや自然の流れを肌で感じることができます。北アルプスの峰々に降り注いだ雨は長い年月をかけて梓川などの大きな流れとなってこの地を潤しています。この大自然こそ仏教でいうところの法なのだと思います。法の中に生き、法とともに生きることを信念とすればわたしや神宮寺の寒山への道がそれていくことは決してないだろうと思います。ここにわたしの決意を表明するとともに、神宮寺の新しい寺報を「神宮寺報山河」と名付け、皆様にこれからも神宮寺を暖かく見守っていただくことをお願いします。

Feel Our Soul People

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