PEOPLE
春秋社『生命力 ー 呼吸がつなぐ「こころ」と「からだ」』
1.ひとり、あること K2峰
1996年5月初旬、世界第二の高峰、K2峰登山へ向けて、ベースキャンプ(登山活動をするための基地)でサポートしてくれるパートナーの優美とともに成田を出発しました。今回は単独での登山をめざします。
「ひとり あること」を求めての登山。36歳になった私は日常のなかにおいても、「ひとり」が大きなテーマになっていました。
「突き詰めてゆけば、ひとはひとりではないか?」
行動し、体験を通して、それをみつめてみたい。
もしかしたら孤高の山、K2峰に私は呼ばれたのかもしれません。
K2峰。標高8611m。ヒマラヤ山脈のなかでも西方のカラコルムヒマラヤにあり、パキスタンと中国の国境にこの山域の王者のように聳えています。
その不思議な名前は、19世紀中頃にこのエリアをイギリス統治時代のインド測量局が測量したときに由来します。彼らは測った順にKarakorum(カラコルム)の頭文字と数字でK1、K2、K3…と山に番号をつけてゆきました。中国側ではラクダに乗った隊商などが目にしており、チョゴリ(大きな山)という名前がありますが、パキスタン側では村々から望めない遥かな奥地にあり、地元の人々の呼び名がありませんでした。そのため、K2という番号がそのまま、この山の名前として定着してゆきました。これだけの高峰ながら、パキスタン側からは現代に入って発見された山といえるのかもしれません。
K2峰に登るため、まずパキスタンの首都、イスラマバードで観光省でのブリーフィング(簡単な状況確認と手続き)や食料、装備の買い出しなどの準備を行います。その後、チャーターしたバスに荷物を積み、国境地帯の山の町、スカルドゥへ移動。そこでさらに生鮮食品などを買い足し、車で入れるぎりぎりのところまでジープで移動しました。
終点からは、キャラバンという山旅が始まります。8000m峰登山ではアプローチから順応、アタックと登山期間は約二か月の長期に渡るため、その間必要になる食料や燃料、登山で使用する装備などをベースキャンプまで、ポーター(荷運び人)やヤク(高原の船とも呼ばれるウシ科の動物)などの動物に運んでもらう必要があります。
今回は約50名のポーターとともに、標高5200mのベースキャンプ地へ向かいました。山の旅、キャラバンは、辺境の山村を縫うように進み、やがて全長50kmを超える世界でも有数規模のバルトロ氷河の氷の上を辿ってゆきます。
ポーターを務める山の民、バルティ族の人々とのふれあいも楽しく、魅力に溢れた10日間に及ぶキャラバンを経て、私たちはK2峰のベースキャンプ地に到着しました。
まずは二か月間の我が家となるテント、キッチン(食堂)や装備用テントなどを設営し、快適なベースキャンプを創りました。
翌日から、さっそく「ひとり」の登山を開始。
上り下りを繰り返し、酸素の希薄な環境に慣れてゆくための高度順応を行います。適度な刺激を与えることで、私たちのからだのなかの順応力が働き、細胞レベルで短期間で高所の環境に適応しようとしてくれます。それは海から陸へと進化してきた生命そのものが新たな環境へ適応しようとする生命力といってよいかもしれません。
刺激が強すぎればダメージ、すなわち高山病となり、回復が難しくなってゆきます。そのため、自分のからだの感覚に敏感になり、適度な刺激と休養を取りながら、順応を進めてゆくことが大切です。酸素ボンベを使わない無酸素登山においては、標高5000m~6000mの順応の第一ステージはもちろん、7000m付近の第二ステージの順応が重要になってきます。特に標高8500mを超える山に無酸素で登るとすれば、この第二ステージの順応がしっかりとできていないと高所での本当の勝負ができません。
このK2峰登山では、山頂に向かうアタックに備えて、約一か月の間に7100mまで三回登り、ようやく「準備ができた!」と感じました。
準備とは、からだが酸素の希薄な空間に慣れてきたということ、そしてもうひとつ、私が大切にしていることがあります。それは、山や周囲の環境とも馴染んできて、なにかK2峰が私を受け入れてくれるような感覚といえばよいでしょうか。
順応後は、ベースキャンプでしっかりと休養しながら、好天の訪れを待ちます。そして天候や山の状況、自身の体調を含めて勝負のタイミングを見極め、「ここだ!」と感じたときに山頂へ向かうアタックに出発します。
しかし、自然の大きな働きのなかでの活動でもあり、そう簡単にはゆきません。一度目のアタックは7400m付近で悪天候のために断念し、下山。二度目のアタックも天候悪化のため、途中にて下山。
なかなか、チャンスが訪れません。次第にベースキャンプの食料・燃料も少なくなり、タイムリミットが近づいてきていました。
登山開始から二か月が過ぎようとする7月下旬、ようやく、不安定だった天候が落ち着いてきました。ベースキャンプの状況、そして自分の気持ちの面でも、今回が最後のアタックだと感じます。
7月26日、ベースキャンプを出発。
7000m付近で一日強風をやり過ごし、前回張っておいた7900m地点のテントに到着。いよいよ、ここからが勝負です。
登頂へのポイントは二つ。
ひとつは、技術的に難しいハンギンググレイシャー(被さるような氷壁)をトラバース(横に移動)し、突破しなければならないこと。
もうひとつは、その上部の8400m付近からはじまる雪が吹き溜まった急斜面を腰から胸くらいの深さの雪をかき分けて登らねばならないこと。
無酸素登山では、8400mを超えると歩くだけでも精一杯になってきます。はたして、深雪をラッセル(雪を固めて足場を作りながら進むこと)ができるか否か…。
午前一時、テントを出発。ありがたいことに、空には円かな月が。月明かりに山全体が映え、ライトの明かりも不要なほど。風もなく、とても穏やかな夜。願ってもない最高のチャンスに恵まれました。
ゆっくりと上部へ向かって登ってゆきます。氷雪壁の傾斜は増し、いつのまにか上部に覆いかぶさるように立つ氷壁、第一の核心部のハンギンググレイシャーが近づいてきました。氷壁の基部まで登り、遥に切れ落ちた斜面を左にトラバースしてゆきます。一歩でも滑ったら終わりの世界。落ち着いて一歩一歩、アイゼンを付けた登山靴を蹴り込み、ピッケルを打ち込みながら進んでゆきました。
ようやくのことで氷壁部分を終了。ここからは真っすぐに上に向かってゆきます。予想した通り、雪がやわらかく、深く潜るようになってきました。
両手で目の前の雪をからだの前に掻きおろし、膝で押し固め、足を上げ、そのステップが崩れないようにバランスよく体重を乗せる。一呼吸一呼吸、しっかりと息をしながらこの動きを繰り返します。本当は、この高所でこんな全身を使った動きはとんでもないことなのですが…。
急峻な雪壁でラッセルを繰り返す内に、いつの間にか不思議な感覚になっていました。アタックに入って四日目。初日に胃の調子が悪くなったこともあり、ずっと水分しか摂っていません。もう、自分のなかにエネルギーは残っていないと思っていたのですが、何か呼吸を通して目の前の空間からエネルギーが流れ込んでくるような気がします。まるで大気中に満ちる無限のエネルギーが呼吸を通して自分を通過してゆくよう。いつのまにか、よろこびさえも感じるようになっていました。
「私はこのために、K2峰へ来たんだ!」
意識が静まり、時間が消える…。
8400mの空間で流れる無心の時。
いつの間にか傾斜が緩んできて、ついにパキスタンと中国の国境稜線に出ました。時計をみると、高さ150m程の雪壁の突破に四時間が過ぎていました。
稜線の先、間近に山頂が見えています。
実はこの写真の頂の手前に10m程の小さなピークがあり、私はそこが山頂だと思い、力を振り絞って登り切りました。
と、まだ、前方にピークが…。
一気に登ったため、酸欠状態になり、「ぜーぜー」と喘ぎました。ようやく呼吸が落ち着き、あらためて見上げると、
「なんて、美しいんだろう。」
「なんて、すばらしいんだろう。」
「最高のフィナーレ…。」
K2峰登山のラストは一歩一歩、味わい、噛みしめながら登ってゆきました。
1996年7月29日、パキスタン時間の午後4時20分、私は8611mの頂に立ちました。もう、ここより高いところはありません。眼下に真白き山と山、その間を埋め尽くす氷の河。周囲には、前年に仲間たちと縦走したブロードピーク峰をはじめ、標高7821mの鋭鋒、マッシャーブルム峰やチョゴリザ峰(7665m)など遥なカラコルムヒマラヤの山々も見えています。
ダウンウェア(羽毛服)のポケットから無線機を出し、ベースキャンプでずっと、この登山を支えてくれた優美に伝えました。
「着いたよ…。」
「ありがとう。」
スピーカーから優美の声が聞こえます。
「ずっと、望遠鏡で見ていたよ。おめでとう。」
K2峰の頂での歓喜のとき…。登山家としての登頂のよろこびはもちろんですが、実はこの瞬間というよりも、ひとりで何度も何度も上り下りをしていた順応段階から感じていた感覚がありました。「ひとり、ある」その一瞬一瞬、自然や山と、そしてもっと大きな何かとつながっている感覚…。
「ただひとり、あること。それは、すべてとひとつ。」
All alone and one with all.
当時はこの感覚をこれ以外の言葉で表現することはできませんでした。2年ほど前、ある専門学校で講演をさせていただいたときに、ひとりの学生から「ひとりということについて、私たちにも分かるように教えていただけませんか?」との質問をいただきました。
学生に伝えようと模索するなかで、私はその感覚をさらに深くとらえることができました。
当時の私は物理的にも絶対的な「ひとり」の世界に身を置く必要があり、あたかも山に呼ばれるようにK2峰の世界に入ってゆきました。頂へ向かうというシンプルな動機のもと、登るという行為の一瞬一瞬に意味があったと感じます。
「いま」という瞬間に、世界にふれる。
その接点を通して一瞬一瞬、世界が立ち現われては消えてゆく。その一瞬においては、誰でもひとり。その瞬間には他者も、観念も思考も入る余地はありません。そこに湧きあがる一瞬の感覚。それは、「わたし」のものでもだれのものでもなく、まさしく「場」そのものから生まれる「ギフト」のようなものかもしれません。その感覚を信頼し、そこに立つことが、次の一瞬を開くと感じます。
自ら、ひとり立つ孤独は孤立ではありません。その孤独を通してのみ、全体性への扉が開いてゆく。その鍵は、実は場所でも活動内容でもなく、「いま、この瞬間」に「ひとり」あること。意識の介入しない「いま」。そこにふれるセンサーとしての「からだ」の感覚を唯一の拠りどころとして…。
その扉はいつでも、どこでも、だれにでも、開かれています。
2.宇宙のリズム チョモランマ峰
K2峰登山を終えると、自然に世界で一番高い山の存在が私のなかで大きくなってきました。
エベレスト山、標高8848m。ネパールと中国(チベット)の境に座す世界最高峰。
「エベレスト」は、19世紀の測量当時のイギリス測量局の長官名であり、現在は地元の人々のつけた名前を尊重し、中国側からは「大地の母なる女神」を表すチョモランマ峰、ネパール側からは、「サガルマータ(地球の頂点)」と呼ばれるようになりました。
私は、チベット側からのこの山、すなわちチョモランマ峰に惹かれていました。そして、登ってみたいコースがありました。
基部から山頂まで3000mのスケールの北西壁。その壁を真っすぐ、山頂に向かって登るライン。登ることを通して、精神の高みへも向かえたらとの願いとともに…。
1998年7月、ネパールから陸路で国境を越え、チベット(中国)へ。古都、ラサで登山の様々な手続きを終えチョモランマ峰へ向けて車で移動。道路の終点からはヤクに荷物を積んで標高5600mの北西壁アドバンスベースキャンプへと入りました。
そしてK2峰のときと同様、約一か月の順応期間を経て、好天の訪れと北西壁の雪が落ち着くのを待って、アタックに出発。
今回のルートは技術的にも難しいため、山が一番冷え込む夜間も眠らず、休憩のみで三日間行動し続けることで寝袋、テントなどを省き、荷物を徹底的に軽くして登ることを目指します。
アタック一日目。
6500m付近を登っているとき、自分の少し離れた頭上に誰かがいるような不思議な感覚になっていました。もうひとりの自分、あるいはもうひとりの誰かといえばよいでしょうか。その誰かがずっと傍にいる感覚。その彼とときおり、話をしながら…。
心理学では、人が恐怖に直面した時、その恐怖を和らげるためにもうひとりの人格を無意識につくったりすることがあるそうですが、それとは異なり、とても落ち着いた心のなかに現れた存在でした。
氷雪壁の状況を見極めながら、慎重に登ってゆきます。高度が上がるにつれ、想像していた以上に雪が深くなり、体力の消耗が激しくなってきました。7500mを超える頃、休憩のみで登り続けることは無理だと判断し、やむなく泊まりながら登ることに変更。
7600m地点で雪壁に穴を掘り、ツェルト(簡易なシート)を張ってその中で朝を待つことにしました。高所では高山病にならないように、そして血液が濃くなって血栓などができないように、水分をたくさん摂る必要があります。コンロで雪を溶かして沸かしてお茶を作ります。カップ一杯のお茶ができるのに30分程。とにかく、お茶を作っては飲み、作っては飲みを繰り返す。一杯の紅茶ができると、ずっと一緒にいるように感じているもうひとりの誰かに思わず、カップを差し出しました。
「お茶ができたよ!」
しかし、誰も受け取ってくれない。
そこで初めて、その感覚のおかしさに気づきました。
次第に夕暮れが近づき、前方に見えるチャンツェ峰(7543m)が西陽に照らされています。私のいるチョモランマ峰自体も金色のひかりに包まれていました。
「ジーッ」というバイブレイション(波動)が空間全体に満ちているのを感じます。
「生きてゆく世界は、ふもとの方にある。」
突然、このメッセージが聞こえました。正確にいうと、それは聞こえたというよりも、私の内側から直感のように湧きあがってきたような、あるいは空間から降りてきたような感じでしょうか。もしかしたら例のもうひとりの誰かが伝えてくれたのかもしれません。
「生きてゆく世界は、ふもとの方にある。」
「ふもと」とは、すべてのいのちがつながってあるその豊かな世界。そこにこそ、生きてゆくべき世界がある、と。
それは私にとってなにか特別な、ある意味、啓示ともいえるような瞬間でした。
時を経るほどに、その感覚は私の中で深く了解され、実践されるものとなっています。
チョモランマ峰北西壁のなかに「ひとり」。
今回の登山は登りだしの頃から何か不思議な世界に入ってゆくようでもありました。
ひかりが薄れてくると、我にかえりました。
「いまの体験はなんだったのだろう?」
けっしてそれは幻ではなく、私にとってとても大切な、かけがえのない出来事だったと感じます。
「これから、どうするか?」
今回の登山は、成功すれば世界で初めてとなる登山でした。「登りたい!」その熱が自分のなかで溢れています。
私は湧きあがってきたメッセージを胸に収めました。ツェルトの中に入り、うずくまって夜の寒さに耐えながら朝を待ち、出発。
ゆっくりゆっくりと登ってゆきます。周りからみると、動きはまるでスローモーションのようかもしれません。
アタック二日目、日が暮れる頃、8200m地点に到着。岩陰にツェルトを張って、その中で膝を抱えて座り、少しでも眠ろうとしました。
ウトウトはするのですが、次第に寒さに身体が震えてきます。さすがにこの高度で寝袋、テントなしは堪えます。酸素の希薄な空間ゆえ、からだの内部からの熱もおこりにくいのかもしれません。芯から冷え込むような感じがして、限界が近づくと温かいお茶を作って飲み、身体を温めました。
勝負のアタック三日目。
下降中、疲れてから夜になるリスクを避けるため、夜半から出発する必要があります。
眠れないままに準備を行い、午前一時、最後のアタックに出発。消耗はしてきていても、まだまだ元気で気力もあり、天候も大丈夫そうです。長年、ヒマラヤの山々を登ってきた感覚から、今回はチャンスに恵まれていること、そして十分に山頂に立てると感じていました。
成功すれば世界初の登山でもあり、TVや新聞の自分の登頂成功のニュースが脳裏に浮かび、思わず笑みが零れます。それも、私の中にある正直な気持ちでした。
次第に氷雪壁の傾斜が増してきました。
眠気が襲ってくるようになり、いつの間にか立ったまま眠っている。
「危ないっ!」と目が覚めてまた、登りだす。
気が付くとまた、立ったまま眠っている。そのうち、ずっと一緒にいるように感じているもうひとりの誰かが私の世話を焼いてくれだしました。
「休むときは下の方ではなく、上の方を向いて休むんだよ!」
「ピッケルをしっかりと雪面に刺して休むんだよ!」
明け方、ようやくのことで8500m付近に到達。
すぐ上に岩場が出てきました。その先は、さらに急な氷雪壁が続いています。
少し冷静になって自分のことを振り返りました。
もう、眠気は消えていましたが、バランス感覚が悪くなっていることに気づきました。
もし、高度の影響から平衡感覚がおかしくなっていたとしたら、残念ながら無理はできません。しかし、ここまできて簡単にあきらめることはできません。
「寒気の影響であれば、からだが温まれば回復するのではないか?」
「夜が明けて、お日様のひかりを少しでも浴びて、からだを温めてから判断しよう。」
高みへ!
長年、ヒマラヤの高峰を登り続けてきたことからくる習性なのか、それとも本能的なものなのか。無意識ながら登ろうとする自分がいます。この高度までくると、山頂の魔力のようなものもあるのかもしれません。
じっと、ひかりを待って待機…。
「生きて還ろう!」
一瞬、意識のなかのすべてが消えたときでした。
我にかえるというのでしょうか。
私は、降りる決心をしました。
迷いはありませんでした。
多くの方々にサポートをいただき、自身の長いヒマラヤ登山の集大成、そのクライマックスともいえる大きなプロジェクトの最終段階でした。
その意識からは普通、簡単には抜けられないものかもしれません。
一線を越え、頂に向かい、還って来なかった登山家もいました。酸素が希薄になることで判断力も鈍くなってきます。山頂などの物理的な下降点以外の地点で引き返す決断は、実は高所登山ではとても大変なことです。いま、振り返ってみても、私にとってぎりぎりのポイントだったように思います。もし、あのまま登ってゆけば仮に山頂に行けたとしても、帰りは運次第になっていたかもしれません。
下降に入ると、思った以上に消耗していることに気づきました。傾斜が急なため、延々と後ろ向きで下降し、やっとのことで6500mの台地に降り立ちました。
もう、ここからは立って降りることはできず、お尻で滑りながらの下山。
アタック中、ずっと6000mのプラトー(台地)で見守ってくれていた優美が迎えにきてくれました。
お天気は最高でした。
「私は、人生でも一度あるかないかのチャンスを逃してしまったかもしれない…。」
安全圏に下りてくるとともに、その思いが生まれてきました。
ようやくのことでアドバンスベースキャンプ(5600m)に辿り着き、テントに倒れ込むように休みました。
三日後、落ち着いた気持ちでチョモランマ峰と向き合う自分がいました。
16年に渡り、登り続けてきた登山家としての熱がありました。それは長い間、私を極限の世界へと向かわせてきたものですが、その熱は大学1年の冬、生きる意味を求めていた時に昭和初期に実在した登山家、加藤文太郎氏について書かれた本に出会い、「山に行けば、何かがみえるかもしれない!」と感じた瞬間にはじまったのかもしれません。
登山は、もちろん山頂に到達すれば綺麗に完結するかもしれませんが、究極的には「登る」という行為を通して、「山」と、「自然」と、「宇宙」と、そしてもっといえば、「自分」とふれあってゆくことだと感じます。その意味では、頂には立てませんでしたが、チョモランマ峰での体験は私にとって本当にかけがえのないものでした。
標高5600mのチョモランマ峰北西壁アドバンスベースキャンプで優美とふたりきりで過ごした二か月半。
朝は近くの沢での水汲みから始まる一日。
日中、私は山へトレーニングへ。優美は絵を描いたり散策したり…。陽が傾いてくると、我が家でもあるテントに入ります。
ひと月ほど過ごす内に、この空間に響いてくる独特のリズムを感じるようになりました。
静かなトーンでずっと、この空間に満ちているバイブレイション…。
「宇宙のリズム」
そのリズムが、芯まで沁み込んだ気がしています。
16年間にわたる高峰登山。限りなく宇宙に近い世界に惹かれ、そこに真なるものを求めての旅は、変化のときを迎えていました。
3.いのちの世界
なぜ、こんなにも私は「山」に惹かれるのだろう?
自分の山へのルーツを振り返った時、小さな頃、夕暮れに家の前の橋の上から西方の山を見つめていた記憶に辿りつきます。
桑原山、別名「八本木の山」とも呼ばれる三つのピークからなる山。大分県と宮崎県の境に聳えるこの山、この山域の主峰ではありませんが、昔から山麓の人々にとっての祈りの本山となっており、最近、私はそのおおらかでやわらかなエネルギーに惹かれてやみません。子ども心にも、この山と、あるいは「山」を超えた何かと対話をしていたのかもしれません。
「山」とのつながりは、大学に入り、「登山」と出会い、その旅はヒマラヤへと向かってゆきました。そしていま、「宇宙」を感じる世界から、再び清らかな水や緑に溢れた「いのちの世界」へ。
自分でも不思議なのですが、山のなかで清らかな水の流れにこころ惹かれ、森にひかりが差し込んだ瞬間に立ちつくしたり…。頂へ向かってただひたすらに登ることから大きく変わってきていました。
ただ、まだ自分でもよくわからない不安な感覚のなかにありました。長年、登り続け、ある意味、自分のアイデンティティともなっていた「登ること」へのこだわり…。
この時期、迷いのなかにありながらも、心惹かれるままに北海道から九州まで、日本各地の山の世界へと入ってゆきました。
知床連山、大雪山のカムイミンタラ(神々の遊ぶ庭)、利尻山、飯豊・朝日連峰、鳥海山、日本アルプスの山々、富士山、伯耆大山、九重連山、屋久島、そして郷里の九州山地、祖母山・傾山の世界…。
あるとき、屋久島中央部の奥岳の原生の森を歩いているとき、突然声を出したくなりました。
ドキドキしながら、
「ほー」
「ほー」
そして、大きく「ほっほー」
すると、森の左右上下、さらに奥からと重層に鳥たちが歌いだし、私の声と鳥たちのさえずりが響きあい、まるでシンフォニーのように森に木霊してゆきました。私は我を忘れて、森のなかで歌い続けました。
「そうだ。これでいいんだ。」
「この感覚にたっていいんだ。」
それは、ヒマラヤで得てきた「一瞬の体感」がいのちの世界でその実を結んだ瞬間だったように思います。「湧きあがる一瞬の感覚」は、まさしく「場」からの贈り物のようでした。
この時を機に、ヒマラヤから日本の自然へと回帰してゆく変化の時期から、私は確信とともに自然のなかで他者と「場」を共にすること、その無限の可能性に満ちた「場」、そこに生まれる一瞬の共振こそが、これからの自分の向かうステージなのだと悟りました。
この連載の最初に記させていただいた2011年の東日本大震災のひと月後に雪の知床山中で感じた思い。
「なにがあろうとも、いのちはいまという瞬間に存在をうたう。」
自然とひと、ひととひと、その一瞬の共振に、私は未来への可能性をみます。
4.一瞬の無限
私たちが外界を感知する感覚機能は、昔から五感と呼ばれてきました。視る、聴く、嗅ぐ、味わう、触れる。
現在では、その感覚は内臓感覚や平衡感覚なども含めて20数種に分類されるようになっています。
いわば、「からだ」そのものをセンサーとして、私たちは一瞬一瞬、外界にふれ、感知し、反応しているといえるでしょうか。
一般的には、日常ではその感知した情報を脳まで伝達し、意識の領域で過去の知識や経験を踏まえ、未来を推察し、最終的に判断・決定し、行動してゆくことが多いかと思います。
ただ、意識の領域で思考しているときにも、次の瞬間は刻々と訪れています。感知するのは未来でも過去でもなく、「いま、この瞬間」。
例えば花をみた瞬間、「はっ」と心が動き、わたしたちはその感覚を名づけようとします。花の名前や生態を思い浮かべる方もおられることでしょう。さらに意識の領域で花を、そこで生まれた感覚を捉え、文化の領域でその感覚を表現しようとされるかもしれません。それはもちろん素晴らしいことなのですが、実は、その瞬間にもう、次の一瞬が訪れています。
「はっ」と心が動いた瞬間に、そこにとらわれず、からだで受けたままに、次の一瞬へ。
そう、刻々と訪れる一瞬、一瞬へ…。
意識(思考)の領域にとらわれることなく、知識でも観念でもなく、センサーとしての「からだ」の感覚を唯一の拠りどころに、刻々と訪れる「いまという瞬間」にふれてゆく…。
そのとき、ほんの小さな現在(いま)という一瞬に、無限の世界が、無限のエネルギーに満ちた世界が開きます。(図)
いのちは一瞬一瞬、その領域に訪れます。
風もひかりも木も花も、そこに生まれます。
私たちの「からだ」、その細胞のひとつひとつも、そこに生きてある。
そして、「わたし」も一瞬一瞬、そこに開いては消えてゆく…。
その一瞬に、自然とひと、ひととひと、すべての共振が生まれます。
それは、誰のものでもない「場」そのものからの贈り物。
その実感が、そのエネルギーこそが、私は「生命力」だと感じます。
必要なときに、意識の領域とつながりながらも軸足は「いのち」の領域に。
いま、私たちは太古から不変のそのステージへ、新たに一歩、踏み出すときを迎えているのではないでしょうか。
一瞬の無限。そこに生まれる共振の世界。
それは、誰でもない「わたし」から…。
大丈夫。この感覚に立って大丈夫。
5.終章
最後に、その一瞬に湧いてきた歌をご紹介いたします。
葉山(神奈川)の海で湧いてきた「O Yea」と郷里、大分の藤河内渓谷で生まれた「透き通る青の下で」。
ここではメロディはお伝えできませんが、よろしかったらどうぞ、お声に出してご自由に歌って(読んで)みてください。「O Yea」はぜひ、ハワイの伝統歌舞、フラのように「からだ」から溢れるままに…。きっと、詩自体が持つエネルギーとともに、「からだ」と「こころ」、そして「わたし」が自らその存在を歌いだすことでしょう。
「O Yea」
O Yea ゆれる からだ なみのリズムにのって
O Yea ひびく こころ かんじるまま こころのままに
O Yea ふきくるかぜに りょうてをひろげ
O Yea ながれるみずに こころをひたす
「透きとおる青の下で」
オーオ 透きとおる青の下で わたしはいま ここ
オーオ 広がる大地の上で わたしはいま ここ
オーオ 煌めく星をみつめ わたしはいま ここ
オーオ 輝くひかりを浴びて わたしはいま ここ
パートナーの優美とふたりの娘に、そしてみなさんとの共振に深く感謝をこめて…。
※Web春秋 『生命力ー呼吸がつなぐ「こころ」と「からだ」』
戸髙雅史(とだか・まさふみ)
1961年、大分県生まれ。登山家、野外学校FOS主宰。1996年オペル冒険大賞受賞。ヒマラヤに宇宙を感じ、山との融合を求め、高峰に登り続ける。標高8,611mのK2峰単独登頂(’96,世界第2登)など八千メートル峰四座に無酸素登頂。’98年、チョモランマ峰北西壁にてビバーク中、生きるべき世界はいのちのつながりのなかにあると直感。過去や未来(意識)の介入しない現在[いま]…そこにいのちの本質をみ、瞬間性に満ちた自然という場での体験活動や、即興の音やリズムを交えた講演・ライブなどを通して参加者の方と体験を分かち合っている。