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【リレートーク】ユースFOS 原生自然の山域につながる

2021年ユースと入った大分での原生自然性の高いコース。
私もいつかは行ってみたいと思っていた領域に、
我が子と、小さな頃から自然にふれてきた子と、
いま巡り合えた子と共に、
自然にふれたことは大きな喜びでありました。

子どもと呼ぶには、もう思春期を終え、青年期真っ只中の彼ら。
思春期の感受性と感動性の高まりから、
自分を取り巻くせかいを客観的に見つめる年齢でもあります。
自然に感じることはひとりひとり違う表現で、3日間の自然と仲間、自分を語っています。

私の前置きはこの辺で、、。マサが生まれ育ち、大学探検部時代に登山に目覚め、
トレーニングで登り込んだ山々を舞台に開いたコースレポート。どうぞご覧ください。
とだかゆうみ

 

宮崎県側の森や凍りついた川が印象的だったが特に私が印象に残っているのは、小葉樹に囲まれて日向ぼっこしたこと。

小葉樹の中へと入っていき、木漏れ日を浴びながら寝っ転がっている時間ががとても幸せだった
寒くて眠れなかった昨夜とは全く違う暖かく、穏やかな時が流れていた。
私の心は緑で満たされて、呼吸と共に自然の一部となっている。そんな不思議な感覚があった。

山を降りて今もなおその感覚は私の中で生き続けている気がする。

私は自分の感性にすごく素直になれていたな〜と思う。
たくさんの自然に触れたことによって自分がどんどん豊かになってゆく、自然がとても身近に思う。

倒木から新しい芽が生えている光景から、自然の全ては生と死の繋がりによって生まれるものだということ。命は巡っているんだと感じた。

自然の中で自分の感性に素直にいることは、人を豊かにしてくれるのだと実感できた。

そして今回の山は、目的地に意識が集中するのではなく、登っている途中に出会う大木やふさふさな苔に感動して、
疲れたとしてもその感動が原動力になってまた歩き始める「登山」と言う言葉では決して表せないような山の世界だったなと体感した
今までマサが見てきた世界に少しずつ自分が近づいている気がして嬉しくなった。

今回体験したことが今後の自分にどう生きてくるのかはっきりとは分からないけれど、
素敵な仲間たちと出会って実はもう新しい世界に、自分に出会えているんじゃないかとワクワクしてる。
本当に素敵な山だったなと思う。

自分が感じたことを言葉にするってすごく難しいなって思うけれど
みんなで感じた事とかを共有して今回の体験を明確にしていきたいと思う。楽しみだ!

(hikari todaka 16歳)

2021年、最初の旅ということで何か新たな出会い、気づきに溢れているようで始まり
が楽しみで仕方がなかった。
新たな気づきは羽田空港を発つ所から始まった。離陸して間もなく、真っ青な海が見え
た。そして間も無く、灰色一色の陸が広がっていた。その中には、緑がなかった。
私は、その街の上を通り過ぎてゆく中で不思議な感覚になっていた。
私は宇宙人で、人間の巣を見学しているかのようだった。
きっと、それはアリの巣を観察していた時のような感覚だったかもしれない。
灰色の海の中にある四角い建物や丸い建物をみて、素直にこんなものを創ってしまう人間はすごいと思った。
ただ、自然にとってはそれが「すごい」ことかどうかはきっと関係ない。
「ただ人間が創ったものがそこにある」ということなんだと思う。
「ゾウの時間ネズミの時間」のように、もし動物の心の大きさで生きている時間が違うのだとしたら、
その時の私は人間よりも大きい時間で街を見たらどんな感じかを疑似体験したかもしれない。
下に広がる、「人間社会」という巣の中では今日もとても複雑で細かな人間の時間が過ぎている。
さらに、航路を続けてゆくと森や山が出てきた。
そこではきっとまた別の時間が流れているのだろうと考えながら普段では見ることができない空からの眺めを存分に味わった。

そらのほとりに到着後は、いきなり続行中のコースに飛び入り参加して子ども達と遊んだ。縄跳びや綱引き、鬼ごっこなどいろんな遊びをしてゆく中で、参加者の子供達だけなく、キャンプ場に泊まりに来てる一般の子達まで入ってきてくれた。
その後、準備のためにその場を離れた後でも、子供達が先程一緒だった子たちで遊びを継続していている様子を見て嬉しくなった。そして、私が小さい頃もよくいろんな大人やお兄ちゃん、お姉ちゃんが一緒に遊んでくれていたなと思った。
ここには、夢中で遊ぶ子供達の時間が流れていた。

いよいよ、山行のコースが始まった。ずっしりと重い荷物を持って一歩一歩前に歩く。
こんなに踏み出す一歩に意識することは日常であるだろうか。少しずつ登っては体を休めて進んでゆく。
登っている時はその時間が長くゆったりとして感じるが、ベースに到着した途端、登ってきたときのことはもう頭から離れ、
一晩過ごす我らの家を作り始める。料理の火がついたら、冷たく静かな森の片隅を仄かに照らす暖かな場が生まれた。
みんなで囲み、ご飯を作り夜遅くまで語り合った。その場を離れるときは、元の自然のままに戻して新たなキャンプ地に呼ばれるように向かってゆく。
2千年前までの生活はきっとこうだったんだろう。
小さい頃から、毎週のように山に登ってきたがネガティブな「疲れた」という気持ちになったことは一回もなかった。
逆に、生まれ変わったかのように新鮮な気持ちで新たにリスタートできた。
FOSは、私達のDNAに刻み込まれた生命体としての「人間」の本質的な面を再確認する場だと思う。
情報化、孤立化、オンラインなど、自然や人との繋がりが気薄になり、「繋がる先の何か」や「よりどころ」を探している人たちが出会い、
原始的で潜在的な時間にともにする場はこれからますます必要だと思う。
自然の時間に身を置くこと。
何もない中にはたくさんのものがある。
何者のものでもないときに存在し、私の時間を生きること。
(戸高 千慧 19歳)

「自然的であることの意義」

正月に大分に「山登り」に行ったと家族や友人に話すときにしっくりこない。

人には伝わらないが「山入り」のほうがしっくりくると5日間の体験を振り返っていて感じた。

“自然の中に身を置くことで山の民としての暮らしを追体験する”それが今回の祖母・傾・大崩ユネスコエコパークで過ごすテーマであった。

目指すべきピークや登山技術の向上のような目的を定めない「山入り」を初めてやってみて私が感じたことは、普段から自然と関わることで、人は地球と、そして人同士がひとつとなりやすくなるということだ。

知り合って間もない仲間たちと入った山入りの体験では、今まで感じたことのなかった自然との関わり方があった。

凍り切った川を歩き、壮大な滝を眺め、自由に沢を歩き、暗闇の中で暖を取り、炊事を行い、満点の星空を見ながら眠りにつく。

そのような暮らしの中では、「五感」がより敏感になり、生物として心地よい「時間」が流れ、「つながり」の感覚があり、無意識に今生きることだけを意識すれば良い「シンプルさ」があった。

そのような都会では感じられない「自然的」な生き方がしたくて、チャージをするために横浜からはるばる大分までやってきた。

でも、その体験が自分に心地良くて、何かを持って帰りたいと山から出る頃には考えていた。

自分が住む横浜では自然とつながれないのか、それを確かめたくて帰ってから近くの自然に触れに行った。

まず訪れたのは、町内の神社でやっていたお焚き上げだ。

初詣の時しか行かない地域の氏神様がいる神社だったが、境内にある大きなクスノキを見上げた時は、山で感じたような感動があった。

また、白幡の森という町内にある小さな丘がある公園に昼飯を持っていってみた。

誰もいない森で静かにのんびりする予定だったが偶然そこには、その森をプレイパークとして遊ぶ人たちが集まっていた。

森の隣にある幼稚園からお迎えの時間になった子供たちが各々の遊びをしている光景は、自由で一体感があった。

個人がそれぞれ自然と遊んでいて、それが共通していてひとつになっている感じがしたのだ。

山の民として過ごした5日間は、まさにそのような自然によって人と人とがひとつになる感覚があった。

そこにずっといたであろう木に話しかける人、風のように自分の感動を求めるセンサーに従って向かっていく人、地面に寝転がり、コケと戯れる人、みんな自然でありのままであって、そんな自然な集合体としてひとつとなっていた。

そら、き、かわ、いわ、ひ、ほし、くうきのそれぞれにスケールや広がりの違いはあっても、私が住む横浜にも大分であったような自然がある。
いつでも自然にかえれるのだと気づかせてくれた大分の自然と仲間に感謝している。

(伊藤主峰 22歳)

世界に開かれ、つながりを感じ、再現のない悦びや⾼揚感を感じ、ずっとここにいてこれからもここいるような気になる。

こんな⼭の時間は初めてだ。

縦⾛でもない、⼭岳信仰でもない、⽣活の必要に駆られた⽬的合理的な資源採取でもない。
ただ、⻑い時間、⾝をそこにおきたいと思う。こんな世界体験をどう捉えて、名付けたらいいだろう。

⼭⾏中、ずっとこのような世界を体験していたわけではなかった。今度の登⼭ルートは沢を登り、尾根を超え、沢を降り、ピークへ…
という昔の⼈々が向こう側へいくためにとっていたようなもので、沢の本流を⾒失わないように、歩きたいところを歩くだけ。
これまでに私が経験したほとんどの⼭は、地図を参考にしながら登⼭道をなぞるように歩き、ピンクテープを探し、ひたすら歩くだけ。
どうしても空間から⾃由になることができない。

⼭で最も深い悦びを感じるのは、どこをどうあるいてもいい、沢や雪⼭の世界だ。
それでもこれまでは、⾏動予定をある程度決めていたので、どうしても時間から⾃由になれない。

今回の⼭⾏は時間にたっぷりと余裕を持たせた計画だったため、ピンクテープもコースも無視して、
GPS も詳細な地図もない昔の⼈が⾒ていたような世界を思う存分体験することができた。

その世界では、時間からも、空間からも⾃由で、気持ちも⾝体もだんだんと世界に開かれ、
⾃由な気分になり、⾃然と遊んでいるような、戯れているような感覚になる。

進んでしまわないで、「ずっとここにいたい」と思う瞬間は、光の差し込む凛とした深い渓⾕や、
苔のソファーの肌触りを感じたとき、⽊漏れ⽇がぷかぷかしている照葉樹のカーテンを仰いだとき、夜の静けさと、
幾度となく感じ、際限のない⾼揚感で満ち溢れた。五感も⼼も、⽣き⽣きと敏感になる。

そして、不思議と「ずっとここにいたのかもしれない、これからもそうかもしれない」という感覚が宿る。

東京に帰ってほとんど毎⽇使う新宿駅に到着すると、⾯⽩い感覚を覚えた。

「そういえば、仕事とか研究とか、本とかに夢中になっている⾃分がいたな」と、ついこの間までの⾃分が統合されず、
どこか他⼈事に思える感じ。

こんなにも⻑い間、忘我の境に⼊ったことは初めてだった。
勉強とか会話とかランニングとかで⼊るような変性意識状態による忘我とは違った感じ。
なんだろう。ふと、宮沢賢治が共感覚をもっていたこと、世界とシンクロしていたことを思い出す。
⼭の中で私は、⾃然や世界と、そしてその世界に共にいる仲間との「つながり」を感じていた。

彼も、類似した感覚をより強烈に感じていたのだろうか。
「つながり」の感覚には、⽣きる悦びとか、そのほかにも沢⼭、なにか⼤切なことが詰まっているような気がする。

こんな感覚を⼀⼈ではなく、6 ⼈もの仲間を共有できたことは奇跡的だし、なにか⼀筋の光を掴めたような気がした。

⽇常に馴染み切ってしまうのがもったいないと思うと同時に、
このメンバーで、今回の体験が秘めている可能性を探ることが楽しみだ。
(毛部川 風)

 

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