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【対談(1)】一瞬の無限 〜いまここにある「いのち」〜

昭和育英会理事長の山藤氏と「検査と技術」(医学書院)誌上にて三回に渡って対話をさせていただきました。

〔本連載の形式〕各界で著名な先生方への山藤先生のインタビュー(対談)にて,組織で働くこと,チーム内でのコミュニケーション,教育,臨床検査技師としての知識・技術の継承と向上,患者さんの心・命,自分の人生の役割などについてお話いただきます。対談のなかで,山藤先生が感じた医療とのつながりの部分を,心の「共振」ポイントとして解説を加えていただきます。

<出典> 原文はこちらよりご覧ください。
対談1回目 検査と技術44巻11号(2016年10月)「連載 人の心に寄り添う医療人になる・10」
対談2回目 検査と技術44巻12号(2016年11月)「連載 人の心に寄り添う医療人になる・11」
対談3回目 検査と技術44巻13号(2016年10月)「連載 人の心に寄り添う医療人になる・12」

対談者プロフィール

戸高雅史(とだかまさふみ)氏プロフィール
1961 年,大分県生まれ。登山家.野外学校FOS 代表。佐伯鶴城高校卒,福岡教育大学,同大学院修了。現在,昭和医療技術専門学校特任教授。1996 年,オペル冒険大賞受賞。著書に『A LINE(ソニー企業発行,共著)』,『はじめよう親子登山(山と渓谷社)』。18 歳で登山を始め,23 歳からヒマラヤの世界へ。山との融合を求め,無酸素や単独のシンプルなスタイルで高峰へ登り続ける。36 歳の時,K2 峰に単独無酸素登頂。1998 年,チョモランマ峰北西壁へひとり向かい,8,500 m に到達。そこで,すべてのいのちのつながりの中にこそ,生きるべき世界があると直感。以後,自然と人との触れ合いから生まれる「いのちへの共感」をテーマに,富士山麓と葉山(神奈川県)を拠点として,自然体験活動の指導や講演,ガイドなどを全国で行っている。

山藤賢(さんどうまさる)氏プロフィール
1972 年東京都生まれ.昭和大学医学部,同大学院医学研究科外科系整形外科学修了。医学博士。小学校から高校までは私立暁星学園サッカー部で活躍。東京都大会で優勝した他,全国大会にも出場した。現在は臨床検査技師教育に特化している昭和医療技術専門学校の学校長として学生の育成にかかわる傍ら,現役の臨床医として患者とも向き合う。医療法人社団昭和育英会理事長,横浜つづきメディカルグループ代表として医療機関を複数経営。日本臨床検査学教育協議会においては,副理事長を務め,2014 年には学会長の任も務めた。また,なでしこジャパンのチームドクター(オリンピック,ワールドカップなど帯同),東京都サッカー協会医事委員長(現)を務めるなど,スポーツドクターとしても活躍している。また,2013 年の著書「社会人になるということ」(幻冬舎刊)は,丸善日本橋本店にて,週間ランキング1 位(ビジネス部門)になるなど,その活躍は,医療界にとどまらず,広いフィールドで注目されている。

山藤(さんどう):

冒頭になりますが,読者の方に戸高雅史氏と僕との関係などを紹介したいと思います。戸高さんは皆にまささんと呼ばれていますので,今日も,以下はまささんとさせていただきますが,最初に知り合ったのは,まささん(野外学校FOS)が主催した,西丹沢での大人向け1 泊2 日のキャンプでした。大人たちが山を登り,森で野宿をし,焚き火を囲み,沢登り,滝登りなどをする素敵な大人の遊び(笑)なのですが,初めて参加した僕は,まささんとの出会いに衝撃を受け,まささんの語る話に涙を流したのを昨日のことのように覚えています。

元々まささんは,世界最高峰のチョモランマ(エベレスト)や世界第2 峰のK2 などのヒマラヤの山々への無酸素単独登頂(酸素ボンベを使わない,チームではない独りでの登頂)などの挑戦,実績をはじめ,数々の冒険をしてきた世界的にも著名なアルピニストです。その後,様々な経緯の中,いまは日本の自然の世界を中心に,ファミリー向けの野外学校などを主催しています。僕とは,東日本大震災で被災した福島の子どもたちを富士山に招待する「福島こども富士山プロジェクト」を毎年共催しています。

そのようなご縁なのですが,実は,この連載を始めたときの第1 回目のサブタイトル,“「感じる」を「信じる」,そして「考える」”は,まささんとの対話から生まれた言葉です。そして,元々1 年を目安とした連載でしたので(好評につき,2 年に延長されました。ありがとうございました。編集室)1 年の締めくくりはまささんにしようと,始めから決めていました。この対談の題字のバックの写真も,「福島こども富士山プロジェクト」で,本校教員が撮影した,朝日に照らされた生命力あふれる子どもの写真を使っています。今回は,まささんの様々な経験の中から,「いのち」「しぜん」「ひと」などについて感じるところを対話をし,人の心に寄り添う「自分」という存在について読者と考えてみたいと思っています。そのような不思議な縁でのまささんとの深いつながりですので,今回はまず,僕からではなく,読者の目線に近い編集室からの質問から始めるのがいいかなと思いました。今回は最初のほうはまささんの体験を語ってもらうという形もいいかもしれませんね。僕も間で入っていきます。無茶言ってすみません(笑)。編集室の三由さんよろしくお願いします。

戸高(とだか):

よろしくお願いします。

写真 1 対談場所である山中湖畔,戸高氏の家 の裏山にて(左が戸高氏,写真右が山藤先生)

 

編集室:

よろしくお願いします。それでは,まずはシンプルに,戸高先生はなぜ山を,エベレストを目指されたのでしょうか?

戸高:

まず,エベレストを目指すようになったきっかけですが,元をたどって行くと,大分の山間の小さな村で生まれ育って,小さい頃から山を眺めていたなぁという記憶があります。山に登るようになったのは,本当に人生の不思議で,下宿を決めた隣の部屋が探検部の4年生で,勧誘されたことが始まりです。僕にはそのクラブの活動がとてもしっくりきたんです。格好よく言えば,そのクラブは「未知なるものへ」というテーマを大事にしていて,自分にとってと解釈すれば,いくらでもやりたいことが見えてくるんですよね。何かそういう自由さがあるのも一つの魅力でした。僕はその中でも,洞窟探検,ケービングというものに夢中になっていました。大学1 年生のときに,授業そっちのけでそれに夢中になっていたので,単位もあまり取っていなくて,成績をもらったときに一瞬落ち込んだくらいです。でも,振り返ってみると,自分がものすごく生き生きしている感じなんです。小中高校と,知らず知らずのうちに自分を枠の中に入れてしまっていたのが,その意識の枠が外れ,誰しもが“パイロットになりたい”とか,“野球選手になりたい”とか思っていたあの頃のように,“いまからなんでもできる”と思ったんです。だから,悩みというよりは,なんかうれしい,わくわくする気持ちで,自分がどこに向かうかをもう1 回,真剣に考えたんです。そしてもう一つ,なにかこう,若さなりに真なるものを求めるとか,それをどこに向かえば達成できるのかについても考えました。

そのヒントを本に求め,図書館にこもる生活を続けているときに,新田次郎さんが書いた『孤高の人』という本に出会いました。昭初期に実在した単独行の登山家,加藤文太郎さんのことを書いた本でした。冬の北アルプスの吹雪の厳しい中,岳樺(たけかんば)という木と自分をロープで結びあって,文太郎が一夜を生き抜こうとするシーンが僕の中に飛び込んできて,“あっ,この世界に行きたい。ここに行けば,何か自分が求めているものが見えるんじゃないか”と感じたんです。そのときに,僕は山と出合ってしまったんです。早速,日本のアルプスに行こうとしましたが,初心者が雪のアルプスに行くのは危険だと止められ,春休みは九州の山に登りました。夏に念願のアルプスに行ったらやはりうれしくて,岩登りとか冬山とか,その先にあるヒマラヤとか,そういう世界に行きたいという夢が膨らんできました。そして,23 歳のときに初めて,ヒマラヤに行ったんです。

編集室:

初めてのヒマラヤはどうでしたか?

戸高:

まず,アンナプルナII峰に行きましたが,そんなに甘くない世界だというのを,身をもって体験しました。雪崩に巻き込まれ,雪を吸い込み,流されながら意識がなくなっていきました。自分の短い人生が走馬灯のように流れていき,最後に,両親が泣いているようなシーンが出てきた記憶があるんです。それで暴れて,雪の上に出て助かったんですが,本当にギリギリのところまで行ったと思うんです。その時にはもう,山に登る意味がわからなくなりました。“いのちを危険にさらして登るって,いったい何の意味があるんだろう?こんなことはもう止めよう”と思ったんですね。それで,大学入学時の目的だった数学の教師になり,探検部のときに抱いた,生徒たちと山に登るという夢を叶えようと思いました。

編集室:

でも,再びヒマラヤを目指されましたね。いのちの危険がある場所に,あえて戻ろうと思われたのはなぜでしょうか?

戸高:

研究室で半年ぐらいたった頃から,“あのヒマラヤの日々は甘くなかったけど,全身全霊で生きていたなぁ”とため息をつくようになったんです。“このままあきらめたら一生後悔するな。決して甘くはない世界に,本当に自分が踏み込んで行けるのかどうか確かめるしかないな。通用しなかったらもうすっぱりとあきらめよう”と思ったんです。“自分の本当の力を見極めるには1 人で行くしかない”と思って選んだ山が,アラスカにあるマッキンリー(注:現在の公式名称はデナリー。イヌイットの言葉で偉大なる山)ですね。初めてのヒマラヤのときは,なんとか親の許可も出ましたが,このときには親戚のおじさんも来て(笑),止めようとしました。でも僕は,「どうしても行きたいんだ。ここへ行かないと,自分の先が見えないんだ」と言って,「今回を最後にします」という誓約書を一応書いて(笑)行きました.  そうして,かなりの覚悟を決めて行ったにもかかわらず,実際山に入ると怖かったんです。3日目ぐらいまでは,ちょっとでも雲が広がってくると,“あ~,もういいかな~”と思うなど,引き返す口実を探しながら登っていました。4 日目に天気がだんだん荒れてきました. そういうときには通常,天気が落ち着くのを待つんですけど,なんだか“ここしかないな”という気がして,吹雪になっていくなかを,テントをたたんで登り出したんです。あの日あそこで停滞したら,僕の登山は気持ちのうえで終わっていたと思うんです。だんだん厳しい状況になっていきましたが,必死になると却って余計なことは考えなくなって,いつの間にか山にいることが楽しくなってきました。ちょっとした風の変化などもちゃんと皮膚が受け止めて,風を感じられるようになりました。それまでは,山にいながら自分をベールで覆っていて,だからこそ怖くて仕方なかったのかもしれないですね。その日を境に山にいることが好きになって,結局19 日目に頂上に着いたんです。最後,頂上が50 m ぐらい先に見えたら,もう,子どものように泣きじゃくりながら,急ぎ足で行きましたね。頂上に着いて,“やっぱり僕はヒマラヤに行きたい”と感じました.それは僕にとって,とても大きな体験でした.それから,本当にヒマラヤの世界に踏み込んでいきましたね。

編集室:

一つの山に登られたら,次,そして次,と登られていったのでしょうか?そのときは,いのちをかけて登るということを,どのように考えていらっしゃいましたか?

戸高:

ヒマラヤに,特に,酸素ボンベを使わないで登るとなると,最後はやはり,生命力をすべて発揮するぐらいの場になる可能性があるんです。当時,駆け出しだった僕にとって,登るごとにどんどんステップが上っていき,それが常に全身全霊をかけたチャレンジとなりました。だからこそ,夢中になったんです。僕は当初,単独でマッキンリーを登ったこともあって,自分の感覚で1人でやっていきたいとは思ったのですが,“まだまだ1 人では通用しないなぁ”と限界を感じたんです。それで,以前から興味のあった,教員の人たちで作っているチームを選んで入ってみました。振り返ってみると,この選択が結果的によかったのです。このチームは,全員教員ゆえに時間の制限もあり,通常4回か5回登り降りして高地に順応するところを,1回か2回で済ませることもあります。ですから,それについていけない人は脱落していくという厳しさがありました。それぐらい自分の中の順応力,自分の生命力を限界ギリギリまで発揮するような場が,割と早い段階から始まっていたんです。あまり人には勧められないんですけど,その厳しさが僕には合っていたんでしょうね。幸い最後まで残って,最終的にアタックをかけるところまで,行かせてもらったんです。

山藤:

デナリー(マッキンリー)は,まささんにとって大きな転機になったんですね。せっかくなので,このまま,前半はまささんの体験を続けていただきましょう。

戸高:

はい,ありがとうございます。その後,僕が27歳のときに,その教員のチームで標高8,125 m のナンガ・パルバットに行くことが決まったんです。ナンガ・パルバットは,別名「魔の山」とも呼ばれていて,遭難者が非常に多い山です。“この山で僕,本当に死ぬかもしれない。とにかく,最高のトレーニングをしていこう”と思って,富士山の麓の自動車工場で働きながら毎週富士山に登るという生活をして,万全の準備をしていきました。その甲斐あって,なんとかナンガ・パルバットに登ることができました。それが初めて,僕がヒマラヤの8,000 m の頂上に立った登山になりますね。そうした喜びがあった反面,最後のアタックは2人でかけていたのですが,パートナーの方は,残念ながら亡くなってしまったという悲しい体験もありました。途中から2人のペースに差が出てしまったので,パートナーの方に「待って」と言って,僕が単独で頂上に向かったんです。そして,降りてくるときに,彼の亡骸を発見することになりました.彼の体調を考慮して一緒に引き返すということは,当時の僕の選択肢にはなかったですね。僕も命がけの勝負をしているし,彼も命がけの勝負をしているし,そういうパートナーみたいな感覚なので. 仲間の死ということに関しては,なかなかうまく言えないんですけど,彼の亡骸のそばに降りてきたときに,そこに彼の亡骸はあるのに,星に向かって話しかけるような感覚でした.そして降りてくるときには,疲労骨折気味になっていた足の指先をかばって,足を引きずりながら,涙を流しながら歩いて帰ってきましたね。

共振のポイント
前半の話からは,まささんが常に死と隣り合わせの世界にいたことが感じられると思います。それも,自分の死だけではなく,周囲の人間の死生観とも向き合いながらです。今回の対談で,パートナーを亡くされた話をしてくださいました。僕はまささんの講演や執筆で話を何度も聞いていますが,その壮大な物語ゆえ,その都度ポイントとなる部分が異なります。それは,まささんも意識しているわけではなく,そのときに心の中から湧いてきたものを話しているだけだそうです。パートナーの事故などの話は,受け手によってとらえ方も異なる難しい話なので,普通は触れないことが多い話です。しかし,今回は,まささんからふっと自然に出てきたこともあって,この対談に,医療と関わる重みや対談への想い,まささんの感性との共振を感じました。いつもの医療との橋渡しとしての共振ではなく,この対談に降りてきている感じの「モノ」を読者にも共振していただきたく,ここで,今回の共振のコメントをあえて入れました。(山藤)

 

編集室:

ヒマラヤ初登頂の後,数々の山に挑戦されましたが,登るごとに身体や意識で感じられることは変わっていきましたか?

戸高:

ヒマラヤに,全身全霊をかけて挑むとは言いながら,やはり,自分の中のエネルギーすべてをぶつけるような場でもあった気がするんです。修行段階って言うんですかね。でも,10 年ほどヒマラヤに通い続けて,なんかこう,感覚が変わるときがきたんです。とにかくそれまで,全力で全力で,という感じできましたが,ふっとこう,一つ力が抜ける感じになったんです。そうすると,間合いができるというんですかね,なんかこう,ちょっとゆとりができるというか,自然の大きなリズム,ヒマラヤの大きなリズムと僕のリズムが,ふっとこう,合うような感じがしたんです。具体的に言えば,普通はヒマラヤのエリアに入ると恐怖感や緊張感があるんですが,それがふっとゆるむというか,友達のように感じるというか,そういう感覚です。これはもう,肉体的,感覚的といいますか,長年,全力で登ってきたから得られた感覚かもしれないですね。

あるときふとそんな感覚になって,いまのこの感覚でできる,したい登山をしようと思ったんです。ヒマラヤの山を登るのにも,自分の登りたい登り方というのがあるんですね。ヒマラヤの山に登るのは大変なので,シェルパの人たちに縁の下の力持ちになっていただくことが一般的になっていますね。でも僕は,必要なものを自分で持って,自分で登って降りてくるという,本来の山のスタイルとも言うべきやり方で,大人数ではなく,感覚的にも合う仲間と一緒に登りたいと思ったんです。

それで選んだ山が,ブロードピーク峰です。北峰,中央峰,主峰の3つのピークが鳥の羽を広げたかのようにそびえている山ですが,2人の仲間とともに,この3つの山を登る縦走というのにトライしたんです。その体験がまた一つ,大きかったですね。感覚的にヒマラヤの感覚に馴染んできて,創造的に自分の感覚に従って,そういうチームを作って登る登山です。登山家として,大きく花開く時期が来ていた,といえばいいかもしれないですね。この縦走は,世界で2 番目に成功したんですが,僕にとってはその成功の記録よりも,ここで体験した2つのことが,後々振り返ってみて,深く心に刻まれるものとなりました。

一つは,一番目のピークで,北峰の急峻な雪と氷の壁,続いて岩を登って7,100 m ぐらいまできたときに,僕たちの持っている装備だけではもう引き返せないと気づいたんです。引き返すためにはロープをぶら下げるための支点がたくさん必要になるんですけど,絞り込んで行ったので,引き返すことを考えると足りなかったんです。でも,“引き返せない,生きて帰るには行くしかない”と気づいた瞬間に,スパーンと,過去も未来も意識から消えていきました。スポーツでいうゾーン,ですかね。降りてくるまでの残りの5 日半,ずっとその感覚でしたね。言葉では,「いのちはいまここ」というのは知ってはいたけれども,それを実感,実体験することになったなぁ,と思いますね。

もう一つは,頂上から降りてくるときのことで,雪面に足を踏み入れた瞬間に跳んだんです。跳んだ後でそこを見ると,クレバス(裂け目)が開いていました。足裏の感覚をちゃんと頭で受け止めてから,「クレバスだ,跳ばなきゃ」という感覚で跳んでいたら,間に合わなかったと思うんですね。足裏の感覚だけで跳んで,“あぁ,あれは本当に危ない瞬間だったなぁ”と,いまでも思いますが,僕ら人間は,生き物としてそういう能力があるんだなと感じますね。

山藤:

実際,脳が指令を出してから動作が起こるのでは時間がかかりすぎるので,そのような動きは感覚的(無意識化)に行われるという研究や論文も最近はありますよ。ただ,そのような学術的な話というよりも,むしろ,まささんの話からは,人間本来が持っている力,鎧をまとわない状態での,本質的な一瞬を生きる力みたいなものを感じました。余分なモノ,余分な思考,他者への依存などがあれば発揮されない力のような感じがしますね。

編集室:

そんな戸高先生が,ヒマラヤへの登山を終えられたきっかけは何ですか?またヒマラヤの後,いのちや自然に対する考え方・感じ方などは変わりましたでしょうか?

写真 2 登頂を目指す戸高氏―ブロードピーク 中央峰 7,800 m 付近にて

戸高:

きっかけは突然訪れたんです。まず,ブロードピークの後,K2という世界で2 番目に高い山に,今度は完全に1 人で行ったんです。ちょうど僕が36 歳になっていて,日常の中で,兄弟,家族,仲間に囲まれていたとしても,“突き詰めていけば,人は1人なんじゃないか”という思いを強く持っていたときで,それを自分なりに,体験を通して見つめてみたいという思いがベースにあったんですね。K2 には,無酸素単独登頂という自分のスタイルで登山家としても頂上に立つことができて,僕の登山の集大成にもなったんですけど(世界第2 踏の記録),それだけじゃなく,1 人という体験は,決して孤立感とかではなく,山や自然と,あるいは僕なりの言葉でいうと,いまここの自分の感覚を通して宇宙とつながっているような感覚なんだ,と実感できたことが大きかったです。“いまここの自分の感覚を手放してしまったら,僕はもういないな”という感覚ですかね。

そして,K2 を登ったあとに,世界で一番高い山に行きたくなりました。チベットのほうから登るチョモランマ(注:エベレストのチベット名。標高8,848 m)です。当時,単独で無酸素ではまだ世界で誰も登っていなかったルートからチャレンジしたんです。そして,アタックをしたときに,7,600 m ぐらいのところで,一種,啓示といっていいような瞬間,僕にとってはそういう瞬間だったと思うんですけど,「生きていく世界は,麓のほうにある」というメッセージを受けたんです。麓というのは,すべてのいのちがつながってある,豊かなつながりという感覚ですね。それが聞こえました。

しかし,その瞬間はそれは収めて,またさらに上に登っていったんですけど,8,500 m ぐらいのところで,行くか,止めるか,ちょっと自分を冷静に振り返るような感じになったんです。バランス感覚が少し悪くなっていたんです。高度の影響でもあるし,寒さで感覚も鈍っていたので。少しでも日を浴びて自分の感をちょっと冷静に見つめてみたいと思って,夜が明けるのを待っていたんですね。通常だとそれぐらいまで行くと,山頂の魔力みたいなものがあるんです。なんだか,惹かれちゃうんです。また野心がないといえばウソになります。そして,いろんな人に応援してもらって,長年の僕の15年,16 年近い登山の集大成みたいな位置づけでの登山でもあるし,大きなプロジェクトでもあるし……,世界初ということで新聞の見出しを飾っているような自分も浮かぶんです。普通に考えるとその気持ちはずっと外れないと思うんですけど,なんだか一瞬,そういうすべてがすぅっと外れるときがあったんです。その瞬間に“あっ,生きて帰ろう”と感じたんです。何か一番大切なことに気づいたのかもしれないですね。それは登山家としてではなく,1 人の人として,生を持ってこの世に生まれてきて,というところに立ち返ったのかもしれません。頂上に立たないと僕の人生がないわけじゃない,という感覚ですかね。

それから3 年ぐらい,僕にとっては変化の時期でした。登山家,戸高雅史という世の中的な評価がなくなること,自分の人生が変わることへの不安もありました。まだ,自分のいま開いた感覚に完全に立ちきれない,ちょっと迷いがある時期でもあったんです。例えば,山に入っても,水が流れているシーンで僕の心の琴線が揺れ動いて,そこで立ちつくしてしまう感じになるんですね。それから上に行こうとは思わない。で,そこでゆっくりして,引き返してくる。個人の登山だとそれができるのですが,ガイドで行っているときには,その感覚で,「今日止めましょう」とは言えません。“あぁ,もう僕はここで戻りたいんだ”と,そのときの自分の感覚はしっかりと受け止めながらも,仕事として上まで一緒に行く。“このまま行ったら,僕はどうなるんだろう”という不安を抱えながら過ごしていた時期でした。

でも,あるときに,屋久島の森に入って,なんか,自分から声を出したくなったんですね。それで,「ほっ,ほ~」っていうふうに声を出したら,鳥たちが一斉に歌ってくれたんです。僕には,それは一緒に歌ってくれているというのがわかって,“あぁ,これで,この道でいいんじゃないかな”っていうのを感じたんです。で,そういうものを録音して,いままでお世話になった人たちにテープをお送りしたんですよ。そしたら,皆,「戸高,変になった。あいつに会わないほうがいいよ」みたいな感じになって(笑),ちょっと,シュンとなったんです。

そんなときに,ある中学校で講演をさせていただいたんです。それまでは,チャレンジして達成して,K2 に登りました,というある意味わかりやすいストーリーの講演をしていたんですけど,そのとき初めて,画面を見ながら「ほっ,ほ~」と歌ったり,そのときに感じている自分の感覚を,言葉じゃなく,音や写真で表現したんです。講演の後,先生たちからは,「もっと言葉がほしかった」と言われて,またシュンとなって帰ったんですが,約1 カ月後に,生徒さんたちからの感想が届いて,そこに,「なんでこんなに心が振るえたんだろう」とか,「なんでこんなに美しいって感じるんだろう」と書いてあったんです。それがもう,僕に勇気を与えてくれて,“あぁ,やはりこの感覚,伝わったんだ”と思って,嬉しかったですね。で,そんな変化の時期を過ごして,今もその感覚に立って,それを逆にこう,日常の中にうまく手放さないで生きていくような在り様というのを,かかわる方たちと一緒にできたらいいなぁ,っていうところですかね。でもね,その「変になった」っていうときに,1 人だけ,僕のお世話になった大学の先生が,「いやぁ,君の,いまそこにあることを,僕は本当に応援しているよ」って言ってくれたんです。そういう方がいるって,うれしかったですね(笑)

山藤:

まささんは確かに常人では量れないスケールの人間です(笑)。まささん,壮大な物語,本当にその一部ではありますが,想いとともにお話くださってありがとうございました。この後,質問,対話を通して,さらに現実の世界観といのち,私たちをつなぐ物語を深めさせていただきますね。

戸高:

ありとうございます。僕も楽しみです。

【対談(2)】一瞬の無限 〜いまここにある「いのち」〜

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