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【原っぱ大学ガクチョー&FOS代表MASAとのコラボレーション・ストーリー/from原っぱ
原っぱ大学では、2019年より野外学校FOSとのコラボレーション・プログラムを開催しています。春にはリトル世代の親子と山歩き、夏には富士山を間近に感じる親子キャンプ。小学生以上の子どもたちと共にした西丹沢トレックでは、自分たちの足でどんどん渓谷に入り野営で寝泊まり。秋の鷹取山のロッククライミングや、厳冬期の富士山親子ソリ遊び。四季を存分に楽しむプログラムは、原っぱ大学のフィールドのその先にある純度が高い自然の世界ばかり。原っぱ大学で遊びを共にした仲間たちは、野外学校FOS戸高雅史さん(マサさん)の誘う世界へ安心して飛び込んでいきました。活動している場所や内容は異なるけれど、原っぱとFOSの根っこにある想いは同じ。同じだと感じる部分は、どんなところだろうか?
こんにちは。ガクチョーツカコシです。昨年よりコラボ・プログラムをいくつも開催している 野外学校 Feel Our Soulの戸高雅史さん(マサさん)とワタクシが先日、葉山の海で“対談”をしてきました。
アルパインクライマーとして、ヒマラヤやK2など極限の世界で生と死に触れてきたマサさんが主催する野外学校FOS。僕自身はそういう究極の自然に身を置いたことなどないし、原っぱ大学はいわゆる「野外教育活動」や「自然体験」っていうのは違うと思っているのだけど…。
出自も経験も全く違うのに、マサさんの世界は「原っぱ」とつながっている。マサさんが語る言葉のひとつひとつに「原っぱ」を感じるんです。
以下、本文よりマサさんの言葉を抜粋。
“何をやっていいけれど、自分でたしかめること。(中略)これは達成することでもないんです、自分なりに納得したところでオッケー。これが良い。”
“子どもたちは歩きながら、すぐに蟻を見つけたりと、そこからワンダーが始まるじゃないですか。それが自分にとって衝撃的でした。これでいいんだ!と実感したのです。”
“一瞬に出会うというコンセプトを大切にしています。それは人によって違うし、それぞれの出会う場を大事したい。水の流れや波のリズムとか、そこに誘ってくれる自然界には要素がたくさんあって、何処でも可能だけど、一歩深い自然の中に入ってみることでスペシャルなワンダーに出会えます。”
究極の場に身を置いて、極限を知って、自然の力強さを感じて、自分の命と向き合って…。そういう経験をしてきたマサさんがたどり着いたのは「麓」の世界。頂上を目指す、ではない世界。それは原っぱ大学を通して僕が大事にしていきたいと思ってきていたこと。こうして今、同じ景色をマサさんと眺められているのがうれしいなぁ。
長い対談ですがぜひ読んでください!
絶対的な”自分の存在そのもの”を感じる
ガクチョ:僕ら原っぱとFOSさんは、世界観や人間や世の中の捉え方など、想いの根っこが同じだなと思っていて。原っぱという名前にあるように、僕らはアマチュアなんです。活動の中で、極限の状態まで持っていくことはしないし、まさしく原っぱ的な遊びを展開する場を作っています。それが僕らの役割だと思っていて。年間を通じて自然に触れて遊んでいると、その先を見たくなる子どもや大人たちが現れてくるんですよね。そんな方々にはぜひマサさんの場を体感してほしい。いわゆる自然体験というものは世の中にたくさんあるけれど、マサさんたちの場は良い意味で違っていて、ドーンと突き抜けてくださるなぁと感じています。
マサさん:原っぱの皆さんと一緒に過ごせて、僕は率直に嬉しいです。まずこんな素敵な仲間たちがいることが嬉しい。僕は登山家としてある意味いろんなことを貫いてきた分、世の中の少数派なんだと思っていました。しかしこうして、想いに共振する原っぱの皆さんと繋がり「あ!こんなにいるんだ!」と嬉しくなりました。
僕はヒマラヤという世界に若い頃から惹きこまれて。標高8000mを超える世界では、いつも”宇宙”を感じていました。僕たち人間が良かれと思って作り出したモノや意識で作り出した枠や仕組み。その枠の中に収まることで普段は安心した暮らしができています。もちろん便利な道具があって山に登れてはいるんだけど。でも僕はその枠を超えた世界に身を置きたいと思いました。もっと本質的な意味で、”何かからの自由”ではなくて、”絶対的な自分の存在そのもの”に何の制約もない自由です。唯一あるとしたら、生き抜くための制約。むしろそれだけ。そんな世界に身を置きたかったし、それがヒマラヤの世界なんです。
自分の細胞が喜ぶ感覚を味わう
標高7000mを超えた時に、身体の細胞のひとつひとつが喜んでいる感覚になって、重力からも解放され、諸々の重りが外れるんです。あ!これだ!という感覚で、存在そのものだけがそこにあり、いのちや生きるということを実感する。それが、FOSの根底にあるものです。ヒマラヤという場所は、乗り物で行くのではなく、自分の肉体を使って行動します。例えば冬の富士山でソリ遊びをするプログラムでは、ソリという言葉も含めて、身軽な印象があると思いますが、実は厳冬期の富士山に入るんですね。実際にソリで遊ぶところまでは、風も吹く寒い自然環境の中を2時間近く自らの意志で歩きます。そうして辿り着く世界は格別ですから。そういったことは大事にしています。
未知なるものと出会う探検部に夢中だった
マサさん:高校の時はまだ人生を模索していて。大学へ入学して、すぐに「探検部」に入りました。探検部のテーマは「未知なるものへ」で、何をやってもいい。さらに「未知なるものへ」の前に「自分にとっての」を付け加えると、もっと自由になりますよね。何をやっていいけれど、自分でたしかめること。そのコンセプトに魅了されましたね。ある先輩もひとりになりたいと言って、大学の近くの池にドラム缶イカダを作って浮かべて、二ヶ月過ごそうとしましたが、一週間で寂しくなってやめたんです。これは達成することでもないんです、自分なりに納得したところでオッケー。これが良い。
特に僕が夢中になったのは洞窟探検。探検は冒険と少し違うので、大学によっては測量図を書きます。しかし僕らは、ただシンプルに「奥へ、奥へ」と。もちろん測量なんてしない。それがしっくりきました。探検の途中で、潜ったり泥まみれになって、いわば子どもの遊びです。大学の1年間で、自分が子どもに戻ったような経験をしました。成績表をもらった際、ほとんど単位は取れていなくても全然落ち込まないんです。何のために大学に来たのか?どこへこれから向かっていこうとしているのか?と人生の指針を考えながらも、妙に自分が生き生きしていました。幼いころに、プロ野球選手になりたい!歌手になりたい!って純粋に夢を見ていたあの頃のような19歳でした。
向かうべきヒントが欲しいと大学の図書館にしばらくこもって、一ヶ月ぐらいした頃、僕を探検部に誘ってくれた先輩が一冊の本を貸してくれました。それが登山家を題材にした小説でした。読んだ時に、これだ!と確信しました。その後、日本の様々な山を登り始めて、雪山に行ったり、岩登りをしたり、その延長線でヒマラヤに行きたいと思うようになりました。探検部は原っぱ大学と通じるものがありますね。
ガクチョ:探検部に入りたいです!今やってることは、探検部そのままだなって思います。測量がイヤなところもすごく好きです。
高校生と100kmを歩くことの意味
ガクチョ:月並みな質問かもしれませんが、自分のやりたいことをしながら、生活していく、自立するということをどう考えていましたか?
マサさん:当時、悩みました。教員になるための大学でしたから、ヒマラヤ登山を始めてしまったら、もう教員への道には戻れないんじゃないか?と思いました。今ほど登山がブームじゃないし、登山で生計を立てられる時代でもないし、高峰登山の世界に踏み入るというのは世の中の当たり前から外れていくような。両親や親戚のおじさんまで来て、諭されたり、ロクな人間にならないよと反対されましたね。ただそこまで絶対に教員になりたい!というモチベーションがなくて、探検部でいろんなことをして育つうちに、いずれこれを仕事にしたいと思うにようなりました。
まだ教員への未練もあったので、自分が学校現場でどれだけのことができるのか?と考えて、高校の数学の教員になりました。実業系の高校で、卒業したら就職する子どもたちに向けて、本当に冒険ができるのは今しかないなと思い、辿り着いたのは「100kmを歩くこと」です。授業中に「週末に100km歩かないかーい?」と誘いましたね。当時、土曜は午前中まで授業があったので、終わってから100kmを歩いたんです。普通に歩いて時速4kmなので、25時間かけて歩きます。12人の子どもと同僚の先生と合わせて14人で一緒に歩きました。まだコンビニがなくて、夜22時を過ぎたら全てが暗闇に静まってしまうような環境で、せいぜい自動販売機がポツンポツンとある感じです。北九州の行橋から大きな峠を二つ越えて別府まで歩いて。楽しかったですね。途中で休憩したり寝ることもしないので、ただ歩き続けて、最後はみんな足を引きずりながら。学校では目立たない子たちがすごくいい背中をしていて、その後ろ姿を見ていると嬉しくなりました。この100kmを歩く活動は、その後13年間続いて、一番多い時は450人で一緒に歩きました。
初めてのヒマラヤ登頂で見た世界
マサさん:2年間の教員生活を経て、やはり登山との両立は難しいと思い、ヒマラヤに集中しました。初めて登頂したヒマラヤは、ナンガ・パルバットという山で、標高8125mです。僕が登ったコース(ルパール壁シェル・ルート)は、日本人がまだ登ったことのないコース。8名くらいのチームでチャレンジして、山頂へアタックをかけたのは、僕を含めて2名。長い勝負になると思ってました。その結果、僕は頂上に立てましたが、パートナーは亡くなりました。それがヒマラヤの現実であり、とても厳しい世界でした。最後は150m程の岩壁になっていて、僕とパートナーは登るスピードの差があったので、彼に待っててもらうようお願いして、僕は単独で登頂に向かいました。そして、僕が降りてくる時に、彼の遺体を見つけました。つまり彼も山頂に行きたくなったということだと思います。
リーダーも常々言ってくれたんですが「ヒマラヤ登頂の最後は、個人の勝負になる」と。チームで向かうけれど、最後は自分ひとりの勝負だと。僕は、いつもロープを使わず、300mの岩壁をひとりで登ってトレーニングを積んでいました。パートナーの彼も登頂を諦めたくなかったし、彼の人生をかけてヒマラヤを目指していました。彼は結婚して一歳のお子さんもいて。でもヒマラヤでは、彼自身の勝負だったんだと思います。僕が頂上から降りる頃には夜になり、岩壁の下降にかなり苦労しました。なんとか下に降りて、彼のもとに駆け寄りました。涙を流しながら、不思議なんですが、彼が星になったような気がして夜空の星に話しかけていました。それから彼の分もしっかりと山に向き合おうと思い、そこから5年くらいかけてヒマラヤ登山の集大成を築いていきました。
ヒマラヤから帰還、野外学校FOSが立ち上がるまで
マサさん:ヒマラヤは前述の成功体験を経て、2年ほどいろんなチームに入って活動しましたが、何か今ひとつ掴みきれていない感じがありました。そこで1995年に自分でチームを作ったんです。自分の感覚で登るというもので、誰かの計画に参加するものではない。ブロード・ピーク(北峰~中央峰~主峰)をアルパインスタイルで縦走するという世界的にも評価されたコースなんですが、そこから一気に登山家として花開いた感じですね。そのタイミングとFOSを立ち上げたタイミングはだいたい一緒です。初期のFOSのプログラムは、ヒマラヤにチャレンジしていた僕の熱に共振する方が集まってくださっていたので、初心者だけど、いきなり冬の富士山登頂!というとんでもないコースでしたね(笑)、不思議なもので面白がってくれる方々ばかりでした。
肉体的な限界点を超えた時に訪れるもうひとつの世界。自分自身がそういう体験をしている分、皆さんにもそういう体験をして欲しかったんです。先ほどの100kmを歩くのも同じで、80kmを過ぎた辺りから、誰もが肉体の限界を超えないといけないんです。その超えたところからが良い。ただ、これはやらせることじゃなく、あくまで本人が主体的に、その領域に入っていくと素晴らしい世界なんですね。初期のFOSは、そういう場へ誘ってましたね。
自分の内側から主体的になるために
マサさん:「主体的に」という部分は、なんというか魔力みたいなところがあって。素晴らしいよ、という引き寄せるモノです。騙しているわけじゃなくて、その世界への魅力を感じるようなモノ。自らが行ってみたい!と思うモノ。僕自身が実践していたので、そこへ集まってくる方々は、まだ気づいていないかもしれないけれど「自分の内側にある熱」を皆さんが持っていたので、そこへ共振が生まれたのだと思います。
人の生きる場所は、麓だとメッセージをもらった日
マサさん:その後、K2という山を登って、そのあたりが登山家としてのピークでした。最後に登ったチョモランマの北西壁は、単独としては未踏のラインで、3年かけてチャレンジしました。ちょうどアタックの一日目の標高7600m辺りで、テントは持っていかなかったので、穴を掘って座っていて1人で圧倒的に美しい夕暮れの光の中で佇んでいたんです。その時に「人の生きていく世界は、麓だよ」というメッセージをもらいました。
その登山は不思議な感じで、アタックしている僕のちょっと上の方に、もうひとりの存在がありまして。ずっとその方と話ししながら登りましたね。K2の時とは、違うステージだったのかもしれない。チョモランマの北西壁は誰もいないんです。みんなが行くベースキャンプではないので、僕が単独で登り、下には妻がひとりでキャンプをして待っている状態です。二ヶ月ぐらいの暮らしでした。
チョモランマの北西壁からの登頂が成功すれば、世界初記録になるものでしたが、翌日、翌々日、最後頂上に向かう時にフラフラするようになって、これ以上進んではダメだと思いました。これまでは、宇宙の空間に行ってこそ!と思っていたけれど、これからは「麓にある水と緑の世界だ」とメッセージをもらったんです。立ち止まるようになって、水が流れているところに身を置いて、そこで一日が終わってもいいと思うほど、僕にとって響くところが変わってきたんでしょうね。其の後、プライベートガイドの仕事をしていたので、お客さんとともに山頂に向かうんですが、どうしても立ち止まりたくなるんですよ。でも頂上に行かないといけなくて(笑)ちょっと辛くなることもありました。
我が子から教わったワンダーの世界
マサさん:そして子どもが生まれて。長女がようやく外歩きが出来るようになった2歳前のころ、一緒に散歩ができるようになって。親としては、あの公園まで!もうちょっと先まで!と思うんですが、子どもたちは歩きながら、すぐに蟻を見つけたりと、そこからワンダーが始まるじゃないですか。それが自分にとって衝撃的でした。これでいいんだ!と実感したのです。今思えば、ヒマラヤもそうでした。一瞬一瞬に、涙を流しながら、登頂という大枠の目的ではあるけれども、あの空間で一瞬一瞬に出会う世界は、子どもたちと一緒だなぁと、改めて長女が教えてくれましたね。
FOSの活動は、一瞬に出会うというコンセプトを大切にしています。それは人によって違うし、それぞれの出会う場を大事したい。水の流れや波のリズムとか、そこに誘ってくれる自然界には要素がたくさんあって、何処でも可能だけど、一歩深い自然の中に入ってみることでスペシャルなワンダーに出会えます。
原っぱとFOS、場を共にする歓喜
マサさん:この三月に大人の皆さんと雪山に行きますね。その世界を見たいと集まってくれた大人が集まっているので、ワクワクします。寒い・重たいという一面はありますが、その肉体的な限界を超えると本当に素晴らしい世界があります。まちがいなく、この日本の中で、そしてこの季節の中で、他にはないスペシャルな世界になりますね。
ガクチョ:僕も行きます!
マサさん:新潟の十日町で、ジュニアユースのコースを開催した場所がありまして。お世話いただいたこの地に惚れ移住された方に伺ったのですが、十日町は豪雪地帯で除雪体制が整う前は、冬の期間、陸の孤島になるんですね。自給自足の暮らしというか「じぶんたちで生きる」気概があるんです。もちろんみんなで協力し合うのは当たり前のことです。極論すれば、法律さえ関係なくなるんですよ。生きていくためにどうするか。この感覚を65歳以上の町の方々は持っているようで、僕のヒマラヤの体験と同じだなと。生きることが最上位にある。この三月のツアーは、そんな世界観に行きます。
ガクチョ:僕は極限状態に行ったことがないまま40歳になりましたけれど、原体験の部分や探検部に夢中になったことなど、マサさんがこれまで大事にしてきたことにすごく共感します。僕は野の遊びの中でたくさんのことを培ってきて、それが大事なんだと思ってやってきました。感覚でやってきたことをマサさんに「それでいいんだよ」と言ってもらえて嬉しくて。大事にしたいことは同じで、そこへの登り方は違うけれど、胸が熱くなります。この瞬間も含めて大事にして、それが仕事として成立して、大人も子どもも関係なくみんなで共有できる嬉しさが生きる意味なのかなと感じました。マサさん、ありがとうございました。(筆者 原っぱ大学ガクチョー 塚越暁さん)
今回のリレートークは昨年度からコラボレーションしている原っぱ大学さんのガクチョー塚越さんが、主宰マサとのインタビューを原っぱ大学のページに掲載したものを、ご了承を得てFOSのHPにも掲載することになりました。主宰マサの人となり、今想う事、これからも変わらないメッセージなど、とても丁寧に表現させれています。これからも、原っぱ大学とのコラボレーションによる人・自然・出会いを楽しみにしております。そして、この3月6-8日の予定で、北八ヶ岳のプログラムがあります!ガクチョー塚越さんも参加されるとのこと。詳細はこちら、どうぞ、お待ちしております!
原っぱ大学オトナ Dコース 野外学校FOSのマサさんと北八ヶ岳の森で野宿→http://harappa-daigaku.jp/program/otona/